ないものねだり癖
というのがあった
“?”と思ってしまったらもうその時点で、しっかり乗せられてしまっている。今でも素直に、さすがだなぁ、と思う。
なぜその日おれは池袋にいたのだろう。全く思い出せない。ただこれが目に入った瞬間の、根こそぎ持って行かれたような感覚だけはよく覚えている。街角に貼られたポスター1枚に、あんなにたまげた経験は他にない。
15歳の宮沢りえ、チューすれすれの寸止めである。反則だ。やったもん勝ちの反則だ。
そして添えられたコピーを読んだ。
その通りだ。本当にほしいものはなかなか手に入らない。なぜなら手に入れたその瞬間、どうしようもないくらいほしかったものは、もはやどうしようもなくほしいものではなくなってしまっているからだ。
手に入れた後もほしいものであり続けられるものなどないんだ、と思った。おれは結局、手に入れることができないほしいもの探しをしているんじゃないか、それは永遠のないものねだりなんじゃないか、と思った。
そしてそんな堂々巡りはたぶん今も続いている。
さて、思わせぶりな前置きの後ですが、昨日も10キロ走った。
ヒザは順調だ。油断はしないが、どうやらまた走りたいスピードで走れそうだ。
ただ、その走りたいスピード、というのが曲者だ。
この1ヶ月半ほどの間考えていたのは、なんとかしてまた走れるようになりたいということだった。だから走れるようになって、素直に嬉しかった。
でも走れば思い出す。そういえば走るのは苦しいことなのだ。苦しみながら走らないと、おれの望むところには届かないと思っているから。有森さんは日本人特有のそんな過剰な生真面目さを諌めてくれた。
でもそう言われても、やっぱりできる限り追い込むやり方で走りたいのだ。42.195キロを満足できるタイムで走れるカラダがほしいから。
しかしだ、そんなことを考える一方で、苦しいのは嫌なのだ。できれば人生のあらゆる局面で、なるべく苦しいことは避けて通りたい。
だからいつも走りながら葛藤している。苦しいからもうここで立ち止まって休んじゃおうぜ、という自分の声ににうっかり乗せられないよう、おれは自分を脅したり挑発したりすかしたりしながら走る。
曰く“止まったらここまでの蓄積を放棄することになる。そんな勇気がお前にあるわけがないだろ。止まれるもんなら止まってみろ”
曰く“ここでペースダウンするのに妥当な理由があるなら言ってみろ。ないよな。それなら走り続けるしかねえだろ"
そんな言葉しか自分にかけられない。
ダメになりそうなおれをねじ伏せて最後まで走り切ってやったぜこの野郎、という達成感と、苦しみが終わった解放感を頼みに走っているのだ。
せっかくほしいものが手に入ったのに、こんなことになってしまう。
一昨日、来年3/25の佐倉朝日健康マラソンにエントリーした。しかし、まだ参加費を振り込まずにいる。42.195キロにはたぶん4時間弱はかかるだろう。その間ずーっともうこの辺りでやめちまおうぜ、と持ちかけ続けるであろうおれを、どうやって抑え込むことができるのだろう。その間感じ続けるに違いない苦しさを、どうしたら乗り越えることができるのだろう。
そして、遂にそれを押さえ込めず、乗り越えることを諦めた時に、おれは自分自身にどのくらい幻滅させられるのか、それを思って躊躇しているのだ。
この時のおれとはえらい違いだ。たった一月半前のことではないか。
しかしあれだな、こうやって書くと、深刻さばかりが実際に感じている数倍に誇張されるもんだな。
面倒くせぇ。決めた。明日、駅前のデイリーマートで振り込んでやる。
以上。おしまい。