行きつ戻りつ

走ったり、投げたり、時に釣ったり、何か作ったり、生きてりゃ行き当るとりとめなき事を

ひとの手によるしごと

年末年始にBS、地上波、ケーブルと山ほどの番組を録り貯めてしまった。まだまだ見終われそうにない。

今夜は、NHKスペシャル「終わらない人 宮崎駿」を見た。“今度こそ”、の引退宣言を行ってから2019年公開を目指す長編映画の製作を決意(?)するまでの700日を追ったノーナレーションのドキュメンタリーだ。2016年11月に放送されたものに未公開シーンを加えた完全版の再放送だという。そんな番組があったことすら知らなかった。

 

その終盤で、CGによる短編アニメ作りに取り組んでいた(これが宮崎氏が描いた絵コンテのイメージをCGでなかなか再現できず難航している)宮崎氏が、もう一度“完全手描き”による長編製作を決意した(と思われる)シーンが圧巻だった。

どうやら2016年の放送直後、ひとしきり話題になったらしい。

 

(何もせず休んでいた頃より)短編製作に取り組み始めてからの方が目に力がある、活き活きしてる、とスタッフに言われても、もう後期高齢者どころか断末期なんだ、と宮崎氏は冗談交じりにこぼすばかりで、長編などもうやらない、と言い続ける。

この記事のコメントにもある通り、宮崎氏の腰を上げさせるために一計を案じた鈴木プロデューサーが、ドワンゴ川上氏を当て馬にして見事に焚きつけたのがこのシーンだ、という見方もできるだろう。確かにそうかもしれない。

おれが宮崎氏の立場ならこう思う。馬鹿野郎、てめえらの手など死ぬまで借りるものか、おれが宮崎だ、このまま終わってたまるか、おれがこの手でやってやる、と。

 

あらゆるテクノロジーは、際限なく高度化し続けるに違いない。おれは科学技術はバラ色の未来を作るのだ、と刷り込まれて育った世代だ。科学技術の恩恵をたっぷり受けて生きてきた。自分の前の世代に比べれば、つくづくお陰さまで本当に快適で安寧な生活を享受させてもらっていると思う。それでもコンピュータが、もっと総括的に言えばマシーンが人間をどこまで模倣できるか、そしてそれを超えて行けるかを闇雲に追求する様には、少し前からうんざりしている。そしてよく考えてみると、そら恐ろしくさえ感じる。

新たなテクノロジーが生み出され進化してきたそもそもの目的は、人間が人間らしい幸せな生を全うすることにあったはずだ。

完全自動運転の車が世に普及すれば、交通事故は極少化するに違いない。悲惨な事故がなくなるのは、もちろん素晴らしいことだ。しかしそれが実現したその先、人間のカラダはどうなっていくのだろう。

AI将棋はもはや人間に負けることはないのかもしれない。それを作った人間は、いま何を思うのだろう。人間を超えるものを作ってしまった彼らは本当に幸せなのだろうか?

人の行ってきたことの多くが今よりもさらに機械に取って代わられるであろう未来、人はどのような生活を営み、どのような人生を生きることになるのだろう。

んー、こういうことをゴリゴリ書きたくて書き始めたわけじゃないのになぁ。そういうことについてはいつかまた書くことにしよう。

 

このシーンを見て、おれは生き物として、自分のカラダやアタマを何かのために誰かのためにきちんと真っ当に使いたいと思っているんだな、ということに改めて思い至った。そしてそういう気持ちを持って、宮崎アニメをもう一度見返してみようかな、と思ったのだ。

さて、おれにこれから何ができるのだろう?そんなに時間が残されているわけではないと思う。しかしその一方で、そう思っても後から振り返ると、まだ相当時間は残されていたじゃないか、と思うことの繰り返しで ここまで来た。

明日死んでもいいと思えるような生き方をしよう、とか、最も大切なことは何かを真剣に考え、それに向かってまっすぐに進んでいこう、などと格好いいことは言えない。

でも、最近ちょっといいじゃないかお前な、と思えることが少しでも増えるよう、なんか、ちゃんとやろうぜ、と思うのだ恥ずかしいが。