行きつ戻りつ

走ったり、投げたり、時に釣ったり、何か作ったり、生きてりゃ行き当るとりとめなき事を

花粉症よさらば

31歳の春、月曜の朝、通勤の車中で突然花粉症を発症した。まさに爆発だった。

その前日、おれは埼玉の奥地のゴルフ場での取引先のえらい人との接待ゴルフに駆り出されていた。当時勤めていた会社の社長は、人生に仕事とゴルフ以外何もないという人だったから、若い営業マンだったおれも、腕はともかくゴルフの回数だけは何しろ多かった。年間30回近く行ったんじゃないだろうか。もちろんひたすら会社持ちの接待ゴルフである。楽しいわけがない。

後で思い出した。プレーが終わり駐車場に停めていた営業車に戻ると、薄い青のボンネットが白い粉で覆われていて怪訝に思った。それがまさにスギ花粉だったのだ。それを1日中大量に浴び続けた結果、ついにおれの中の花粉ダムが決壊したのだ。適当な例えだが、まさにそんなイメージだった。それ以来心弾むはずの春は、あまり歓迎したくない季節に変わってしまった。

幸いよく効く市販の漢方薬に出会ったので、それさえあればたいていの年は何とかなっていた。ただ、猛暑の夏の後の花粉シーズンには、大量の花粉が飛ぶ。そんな年は普通なら効くはずの漢方薬では手に負えず、耳鼻科に泣きついた。

そういえばこんなこともあった。東日本大震災があった年の4月上旬、大阪に出張したついでに有休を取り奈良に一泊して、古刹名刹を回ることにした。震災から一ヶ月がたっても東日本では酷い状況が続いていたが、関西にはそんな気配のかけらもなかった。おれはそれにイラついた一方で、少しほっとしてもいた。

40年ぶりに訪れた奈良は、驚いたことに観光地の匂いが極めて薄い、まさに千数百年前のまほろばを肌で感じられる、実に素晴らしいところだった。

しかし、東京では既に飛び終わっていた花粉が何故か奈良にはまだ残っていた。若草山の斜面に座って斑鳩の里を眺め渡しながらこの上なく穏やかで満ち足りた気分で朝飯のパンを食べようとしたあたりでそいつを感知した。そこからえらいことになった。くしゃみと鼻水の発作に襲われつつ東大寺を拝観し、やっと見つけた薬局で鼻炎の薬を買うまで、もう大変だった。

そんな具合に花粉症と付き合ってきたのだが、3年半前に真面目に走り出し、フルマラソンに出るようになって、舌禍免疫療法を試すことにした。それまでは、これでダメだったらもう打つ手はないことになるのかと思ったのと、少なくとも花粉シーズン3回分というあまりにも長い間、4週間ごとに病院に通い(4週間分しか薬を処方できない決まりなのだ)毎日忘れずに薄めた花粉エキスを投与することの煩わしさもあり、二の足を踏んでいた。

しかし何しろおれにとってのマラソンシーズンの総仕上げとなる3月末の佐倉マラソンが行われる頃、スギ花粉の飛散量はピークを迎えることが多いのだ。ちゃんと走ろうと思ったら、これはもうダメ元でチャレンジするしかない。上手く行けば、これでおれも発症前の花粉フリーだった頃の自分に戻れるかもしれない。ダメなら、諦めて一生こいつと付き合うだけだ、と覚悟を決めた。

そして2年半あまり前の10月、近所の耳鼻科に行きスタートした。最初はまず濃度の薄いエキスから始め、アナフィキラシーショックの有無などを確認しながら段階的に濃くして行く。うっかり朝の投与を忘れてしまうことがあり、危うくイチから出直しになりそうなこともあったものの(3日続けて忘れると、最初からやり直さなければならない)、アンプルを保存している冷蔵庫のドアに、でっかく”花粉”と書いた紙を貼り、何とか毎朝の習慣にすることができた。

そして2018年の花粉シーズンを迎えた。周りの花粉症仲間がぐすぐすやり出しても、自分には症状が出ない。毎年あれほど悩まされた鼻、目、上口蓋、耳奥のどうにもならないあの痒みと膨満感が全く感じられない。夜も口を閉じたまま眠れる。朝起きた時に口の中が障子紙のようにカラっからになっていて声も出せない、なんてこともない!

医者によれば、不幸にして全く効果のない人もいるという。改善はするものの、残念ながら完治まで行かない人も多いらしい。ところが本当に嬉しいことにおれの場合、25年近く悩まされ続けてきたあの症状から完全に解放されたのだ。あまりにも劇的な効き目に医者も驚いていた。2年目も3年目の今年も何事も起こらなかった。そして約束の3年目の花粉シーズンが終わり、最後の通院の日がやってきた。

医者は、少し残念そうに「本当は5年継続が推奨されてるんだけどねぇ」と言ったが、ひとまずこれで止めることにしていたので、2年半世話になった礼を言い、最後の4週間分のアンプルを受け取って帰った。

そしていま手元に残ったのは最後のアンプル。およそ1000日にわたって続けてきた習慣が明日で終わる。現代医学よ、本当にありがとう。

これを読んだ花粉症に悩むランナーの誰かがこの秋から免疫療法にトライして、いい結果が出るなんてことがあればいいなと思う。

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おまえのことは忘れないよ

だけどもう二度と思い出さずに済むことを祈るよ

 

小出Tシャツの衝撃

昨日、マスクをするのが鬱陶しいので、人がいないところやいない時間帯を選んで走る、それならよかろう、と書いた。

しかし、どうやらそういうことでは感染リスクを回避することはできないようだ。わが不明を恥じるばかりである。

 

www.youtube.com

なので、これからしばらくの間はバンダナ覆面で走ることにする。

実は100%腹の底から納得しているわけではないんだが、それでも敵が見えない以上、そんなことまで……とそのリスクを軽んじるのは、やはり無謀で無責任な行為なのだと思う。

なんてことを書いていたら、コロナで中止になってしまった佐倉マラソンの記念品が届いた。封筒を触ってみるとどうやらTシャツだ。佐倉のTシャツは毎年同じバックプリントのデザインで、これがどうにもアレなんだよなぁ(すまん!)などと思いつつ、開封してみるとなんと!黒Tだ。ランニング用ではまず買わない色だけど、これはなかなかカッコいい。

左胸には例年通りミズノのマークに、従来は無かった2020の文字が金色でプリントされている。今年の佐倉はやるじゃん、そういえば小出監督メモリアル大会だったんだなぁ、と思う。

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これなら着れるぜ!

例のバックプリントもこの色合いならまぁアリだな!と広げたら、ガツンとやられた。

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Qちゃん、いいねぇ~~~

衝撃、である。まさかこう来るとは思わなかった。

自分の知る限り、小出監督は愛すべき人物であり偉大な指導者だったし、”夢と希望”というのも彼らしいと思う。しかし、いったい何がどこでどうなってこのデザインになってしまったんだろう。

いやいやいや、たかがTシャツのバックプリントにアイデンティティーを根こそぎ持って行かれてしまうちっぽけな己のくだらなさよ、Tシャツなんだから着てナンボだろ、と思おうとしたが、やっぱり無理だ。とてもじゃないが着て走りに行く勇気はない。

でも、みみっちい自意識やちまちましたこだわりなどはまるで無縁のまま生きている、自由で開けた囚われのない心の持ち主はいるものだ。そういう人は、今年は小出監督の顔とサインかぁと思うだけで、このTシャツを着て涼しい顔で走りに出かけるのだ。

 

心の底からそういう人になりたいと思う。本当である。

 

練習日記 200510

アキレス腱が治って1ヶ月。再発の気配がないのは嬉しいんだが、モチベーションがなかなか上がらない。

コロナの影響で出社機会は大幅に減り、走る時間は山ほどある。こりゃあなんぼでも走れるなぁ、と思っていたのにもかかわらず気持ちがついて来ない。故障しないように、というのがこれからの大前提だけど、それにしても以前のようにギアを上げて追い込もうという気になれない。苦しいのはちょっとイヤだしなぁ、などと思う。

世を挙げての自粛モードだ。自分もそいつに冒されているんだろう。医療現場で戦っている医療関係者や、エッセンシャルワーカーの人たちの日々のプレッシャーや恐怖や葛藤を思えば、自粛モードで気分が晴れませんなどと言えるかボケ、と思う。しかし両足を踏ん張って戦うのだと奮い立とうにも、求められているのは動き回らずにじっとしていることだ。そんな日々は少しずつ自分を侵食していく。

だからせめて心と体を保つために走ろうと思う。

ところがいま、周囲と十分な距離を開けて歩いている時でさえ、マスクをするのが当たり前になっている。車を運転しながらマスクをしている人も珍しくない。おれは、それって必要か?と思ってしまうタチだ。さらに、世間に広がりつつある空気を絶対化し、その判断基準から外れた行動をしている者は告発され非難されるべきだと思い込む人々が増えてしまうことは、何より最悪だと思っている。だけどこんな状況下では、マスクをしない人を不快に思ったり恐れたりする人の気持ちもわかる。それでバンダナで鼻と口を覆って何度か走ったけれど、あまりにも鬱陶しくて閉口した。だから人がなるべく少ないところや時間帯を選んで走る。

 

走っていると、お寺や神社が本当にたくさんあることに気づく。特定の宗教に帰依することは生涯ないだろう。かといって人智の及ばぬいわゆる天の摂理や真摯に何かを信ずる心を否定する気持ちも全くない。むしろそういうもの大切にしたいと思っている。

キロ○分△秒で走り切るぞ!と目を吊り上げて走っていると、寄り道など絶対にできない。しかしいまはそんなモードではないので、気が向くとふらふらと境内に入ってみたりする。

今日は18キロ走った。ろくなものを食べずに走ったのでガス欠になり、いい加減くたびれ果てた頃、通りかかったお寺の門前の掲示板に目が行ったので、立ち止まって読んでみた。日蓮宗の寺らしく、立正安国論の冒頭の文章に、当時の時代背景とコロナ感染拡大を重ねた解説文が添えられていた。

日蓮立正安国論を著したのは1260年。なるほど。当時日本は疫病や災害や飢饉に次々と襲われ、まさに屍累々であり、日蓮はその末法の世を救わんと、時の最高権力者北条時頼に提出したのだという。全く知らなかった。日本史、いや歴史に関する知識が情けないほどないのだおれは。

疫病が起これば何が原因か知る由もなく、治療法などもちろんありはしない。死は常に身近にあり、生きることの切実さは今とは比べものにならなかっただろう。法華経を必死に唱えたところで、疫病が治るわけがない。しかしそれ以外何にすがれたというのだ。

そういう人々の身を捩るような嘆きや悲しみや願い、そして感謝や畏敬の念が、長い年月捧げられ続けてきたのだ。それは今でもここに留まり続けているように思えて、いつも境内では少し怖いようなしんとした気持ちになる。

800年前と比べれば、ただ生き伸びるだけならばそれは遥かに容易になったに違いない。しかしいま、コロナウィルスの脅威を前に、世界は息を潜めている。生きることの切実さを問い直すのはこういう時なのではなかろうか、という月並な締めで終わるが、そういうことだと思うのだ本当に。

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道の脇の湿地にクレソン!摘んで帰りたい〜

 

Boston8到着

さて寝るか、と明かりを消してうつらうつらし始めたと思ったら、たまに走る道の脇に耕された小さな畑とその向こうに明るい色のレンガ造りの家が建っている光景が浮かんだ。実際にはそんな畑も家もない。

はっとして飛び起きた。こりゃあそういうことだろ!と勝手に解釈して、いましがたまぶたに浮かんだレンガの色より数段明るいオレンジのBoston8をポチッとしたという訳である。

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スナメリとかゴンドウクジラとか、そんな感じ

コロナでみんな引きこもっているせいで、通販の物流量がすごいことになっていて、運送業者の皆さんが大変というニュースもあったから、待たされるかと思ったら2日で届いた。

もうその日にすぐ履いて走ってから今日でのべ4日、50キロばかり走った。アキレス腱は大丈夫だ。

初日こそ、なんか足に馴染まないなぁと思ったものの、2日目からは違和感もなくなった。250gという重量はadizero japan3と20gしか違わない。でももっちりした着地感のせいだろうか、決して早く走ろうという気にならない。というか苦しくって以前のようなスピードではとても走れないんだけど。

アキレス腱炎で2月以降まともに走れなかったダメージはやっぱり相当大きい。15キロをキロ5分を切って走れていたことが信じられない。見事に心肺機能が下がってしまった。これがアラ還の現実だなぁと思う。

しかし、今は時間だけは山ほどある。周りにも不安を与えないしマスクやBuffをして走った方がいいよなぁ、とは思うけれども、どうにも苦しくて煩わしくてならないので、なるべく人がいないところを選んでこそこそ走る。

2ヶ月や3ヶ月のブランクなど、まだまだきっちり取り返せるということを、身をもって証明してやるのだ。

 

 

 

人呼んでフーテンの寅と発します

コロナで仕事には行けないし、冷たい雨が降っているので走りにも行けない。なのでHDに残っている録画済みの『男はつらいよ』を見ることにした。

寅さんは、何度も見たはずだ。気分のいい時には、お~れがいたんじゃおよ~めにゃ行けぬ、なんて鼻歌が出たりもする。でも、ストーリーは基本寅さんがマドンナに惚れてはふられる繰り返しの鉄板だし、最初から最後までをきっちり見通したことはあっただろうか?

ただどういう訳だかはっきり覚えているシーンがある。おいちゃんともめるかどうかして、またしてもとらやを飛び出し旅に出る寅さんをさくらが柴又駅まで送ってゆく。発車する直前、”おにいちゃん、いつでも帰ってきていいのよ”、と言うさくらに、“ふるさとってやつはよぉ、ふるさとってやつはよぉ”、と答える寅次郎。ドアが閉まり、続けて言いかけた言葉は聞こえぬまま、電車は走り去ってゆく。

さて、『男はつらいよ』は全50作シリーズの第1作だ。せっかくなので富士山に松竹映画のロゴがかぶるタイトルバックも飛ばさずに見始めた。矢切の渡しに乗って寅さんが20年ぶりに葛飾柴又に帰ってくる。おお、この頃からもう江戸川河川敷のゴルフ場はあったのか。昭和44年の東京が懐かしい。

当たり前だが第1作から寅さんはもう完全に寅さんそのもので、登場シーンから盤石の寅さんっぷりだ。それに感心していたら、さくら役の倍賞千恵子があまりにも可愛らしくて感心するどころかビックリした。

天真爛漫というよりはむしろ傍若無人といってもよいくらい手前勝手にふるまう寅さんに、そりゃあやりすぎだよ~、と苦笑しながら見ていたら、若い頃にはたぶん何ともなかった筈のシーンにいちいち心が動く。ニコニコしながらそうかそりゃ良かったのうと眺めていたであろうシーンで、ジーンとくる。ここだ!というシーンではほとんど嗚咽が漏れそうになる。

調べてみたら、さっき書いたさくらと寅さんの別れのシーンは、第6作の『男はつらいよ 純情編』だとわかった。なんでもシリーズ中屈指の名シーンらしい。道理で何にも考えずに見ていたであろう当時のおれの記憶にも刻まれているわけだ。

これはぜひとも再見しなければならない。絶対ボロボロのぐちょぐちょになるので、だれも家にいないときにひとりで。

”私生まれも育ちも葛飾柴又です”のあまりにも有名な口上で始まるあの歌も、カラオケに安心して行けるようになったら、きっと歌おう。ただ、下手に真似すればきっと嫌味になる。どう歌えばいいんだあの歌は。

朝ラン

休みだろうがテレワークだろうが、朝はきちんと起きる。時間にだけは余裕があるのだから、アキレスさえ問題ないならいくらでも走ることができる。

昨日は有休だったので昼に7キロ走り、今日は朝から8キロ走った。

帰宅してシャワー浴びてメシ食って洗濯機回して、それでもテレワーク開始までにまだ間がある。

コロナ渦が過ぎた後でも、こういう暮らしが日常になることはないだろうが、束の間贅沢に時間を使えるのだから、ムダにしたくないと思う。

今朝のニュースでコロナ感染の世界的拡大により、はしかの予防接種に影響が及んでいることを知った。

www3.nhk.or.jp

世界はつながっている。すべては自分に関係のあることなのだ。

復活ラン2回目!

昨日は何ともなかったけど、今日はどうかしらねぇ?

ひと通りストレッチしてから走り出す。やっぱり大丈夫だ。

徐々にペースを上げてみる。

4キロのLAPはキロ4:44。足にはさほど来ないし、もちろんアキレスは何ともないが、なにしろ呼吸がとっても苦しい。筋トレだけじゃ、そこはどうにもならないからなぁ。

あとはペースダウンしてゆるゆると帰った。

こういう時はあれだ、久しぶりに新しいシューズの一足も手に入れて、モチベーションを上げるってのはどうなのよ?

ここはアキレスをいたわって、クッションが効いた程よく厚底のやつにするべきなんだろう。

しかしへそ曲がりなので、はやりものには手を出したくない。つまりナイキは選択肢にない。

いまのところの候補は、adizeroBoston8。実は、ひと月ほど前に店頭で試し履きもしている。

その上位モデルと言えるadizeroJapan3で臨んだつくばではえらい目に遭ったけれど、あれはおれのレースマネジメントがめちゃくちゃだったのが原因だ。シューズそのものは底は比較的薄いにもかかわらず、履き心地が柔らかいのがとても気に入っている。気持ちよくすたすたと走りたいときはこれが一番だと思っているくらいだ。

ただ、Boston8はカラーバリエーションがどうもいまひとつ。えいやっ、と選ぶならオレンジなんだが、むかし駄菓子屋で売っていた粉末ジュースじみた色なのだこれが。でも、こういう時だからこそ、少し気後れするくらい派手なシューズでリスタートってのもアリだろう。

今日は大荒れの天気だったから走らなかったが、明日は晴れる。Japan3で走りながら考えることにしよう。

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オレンジ色の靴なんか履いたことありませんがな

 

 

アキレス腱炎完治(ほぼ)

どうにも不安な日々が続く。まさに戦場と化しつつある現場で戦っている医療関係者の皆さんには、本当に心から感謝したい。小売業で働く皆さんも不安と闘いながら店頭に立っているに違いない。様々な避けがたい事情で、コロナから身を守りこれ以上感染を広げない行動だけに専念できない人は数限りなくいる。仕事がなくなり苦境に陥っている人たちも、どうにか切り抜けてほしい。そして誰もがこの大変な日々を乗り越えて、普通の日々を1日も早く迎えられることを願うばかりだ。いま自分ができる最善のこととは何かを考え、十二分に注意を払いながら行動するだけだ。

 

昨日からGW明けまで、テレワークと休業で一切出社しないことになった。

こんなときだからこそ、心身ともにできるだけ健康でいなければと思う。

実は、夜や夕方に走るのはあんまり好きじゃない。夜は集中できるけれどまわりがよく見えないし、夕方はうら寂しくてそもそも苦手な時間帯なのだ。

しかしだからといって朝走るのはなかなかしんどい。仕事に行く前に10キロとかそれ以上それなりに追い込んで走るなんてことは、とてもじゃないけれどやりたくない。朝はなるべくギリギリまで寝ていたいし、走ってからシャワー浴びて準備して出勤するなんて、習慣になればできるのかもしれないが……、いやいや、やっぱり無理だなぁ。

だから夜走る。かなり追い込んで走っても、あとは風呂入って飯食ってとっとと寝ちゃえばいいんだから。

それに比べて休日の朝はいい。何しろこれから1日が始まるわけで、圧倒的に気持ちに余裕がある。朝はゆるジョグにして、カラダがシャキッと目覚めれば、とてもいい1日のスタートになりそうだ。そして夕方からきっちり走り込めたら完璧な1日になるんじゃないか。

この1か月はアキレス腱炎を治すために全く走らなかった。どうやらそのかいあって、1月に発症して以来しつこく居座っていた違和感はほぼ消えたようだ。なので朝7時、走りに行った。そういえば朝ランなんていつ以来だろう。本当に久しぶりだ。いま世界中でコロナとの戦いが続いているとは思えないほど、今日の空は春らしく穏やかに晴れ渡っていた。

絶対に再発させたくないので、アキレス腱の感覚に注意しながらそろそろと走り出す。いつもよりは少ないけれど、人通りはある。すれ違うとき追い越すときは、なるべく距離を開けるよう気をつけて走る。

アキレスに何の違和感もないとはいかないが、張りや痛みはない。少しでも変化を感じたら歩くつもりでゆっくり進む。どうやら大丈夫だ。1キロ、2キロを過ぎても何も起こらない。ガーミンを見るとキロ6分だ。キロ7分くらいのつもりだったのが、結構いいペースでびっくりした。筋トレはぼちぼちしていたとはいえ、足の筋肉は確実に落ちたし体重も増えたのに。休養十分だからなのかなぁ。

4キロ走って公園に着いた。走っている人、歩いている人、犬を散歩させている人がちらほらといる。ボールで遊ぶ親子、体操をする人、部活ができないからやってきたと思われるパス回しをしたりトスバッティングをしたりしているサッカー部や野球部らしき若者たちがいる。

やっと生え始めた芝生の上に寝転んで腹筋とストレッチをした。太陽に向かってなんちゃって気功もした。それから少しだけペースを上げて走って帰った。やっぱりアキレスは大丈夫なので、最後の500メートルはキロ4分10秒まで上げてみた。ただ、足もカラダも重い。呼吸もキツい。でもどうやらまた走れるようだ。

いま自分にできる最低限のことは、健康を維持しコロナを寄せ付けないことだろう。走ることは、きっとそれを果たす助けになる。3か月ほとんど走れなかったブランクはかなりあるけれど、この1か月はそれを少しずつ取り戻す好機と考えて過ごそう。

 

ヒメよ、ありがとうよ

 

珍しくなにも予定がない休日、録り溜めてあったテレビ番組を何本か見た。多くが生き死にに関わる内容だった。何百キロというトレイルを走り続けるレースを追ったドキュメンタリーだって、見方によってはそういう文脈で捉えることもできる。若い頃よりも死が身近になっているのは間違いないので、そうなるのも当たり前なんだろう。

4/3の朝、19年一緒にいた愛犬(という呼び方が一番ふさわしいんだろうなやっぱり)ヒメが、とうとう逝ってしまった。

友達のヒヨコの親方が心のこもったブログを書いてくれたので、それでいいかなぁと思っていたんだが、やっぱり自分でも書いておこう。

loveofcats.hatenablog.com

少しずつだけど確実に衰弱して痩せてしまい、腰もエビのように曲がっていた。それでも何とか立ち上がろうとし、支えてやると萎えた後ろ足を引きずって懸命に歩いた。しかし遂に起き上がれなくなり、その時が近付いている事はわかっていた。食べ物を口にしなくなってから3日間、小さなスポイトで口の脇から含ませる水だけで持ち堪えた。

4日目の朝、お別れは突然やってきた。こんなに悲しいのか、と驚くくらい悲しかったけれど、家族全員が家にいられるギリギリのタイミングだったから、すぐに出かけなければならなかったおれや長女にはあまり悲しんでいる間もなかった。そんな時までみんなに気を使ってくれたんだなコイツは、と思った。

おれはどういう訳か生まれついての生き物好きで、イヌやネコが飼いたくてたまらなかった。でも親が転勤族で官舎暮らしが長かったこともあって、子供時代にはそれが果たせなかった。そして大人になってやっとペットを飼うことができる環境になった。だけどイヌは金魚や昆虫とは違う。そういう生き物をちゃんと責任を持って飼うことができるんだろうかと考えると、なかなか踏み出せずにいた。

長女はおれの血を引き継いだからかどうか、小さな頃からイヌやネコはおろか虫のたぐいも全く怖がらず、公園に行けば警戒心なく寝そべる野良ネコの尻尾をむんずと掴み、カブトムシのでかい幼虫を平気で手の上で転がしていた。

ペットショップに行くと、大喜びした。ただ、仔犬や仔猫たちと別れるのが悲しくて、最後にはいつも、ワンちゃ〜んと大泣きしながら帰るのだった。

そんな長女の姿を見ておれは躊躇するのをやめ、イヌを飼う事を決めた。つがいのダックスを飼っている人が、生まれた仔犬たちの里親を探しているのをネットで見つけ、うちにやってきたのがヒメだった。

以来19年という長い間、一緒に暮らした。あいつは幸せだったろうか。おれは決して手本になるようないい飼い主にはなれなかったと思う。飼い主を信じ見返りを求めず一途に慕い続けてくれたあいつに、ちゃんと応えてあげられていただろうか。

おれは大人になるということは、強くなることタフになることだと思っているフシがある。しかもたぶんそれは、ある種の爬虫類の皮膚のように角質化した分厚い鎧で心を覆ってしまい、自分の痛みや悲しみ、ひいては他の人の痛みや悲しみにも鈍感になることとほとんどイコールなのだ。そんなものが大人になることであるわけがない。

だけど、その鈍感さの鎧に思いがけずいきなり亀裂が走ることがある。自分の中にこんなに柔らかい無防備なところがあることに気付いてうろたえる。それに気付かせてくれたヒメと、ヒメが残してくれたたくさんの思い出に感謝したい。

 

死んだらどうなるんだろう。

だれも知らない。

それでも信じたい。いまではもうどんなイヌも放すことができなくなってしまったあの公園の草っ原を、あいつはいまごろきっと耳なんか裏返らせちゃってなびかせながら、弾けるような勢いで好き放題駆け回っているんだと。

足元で身をかがめ、早く追っかけてくださいよ!とこっちを見上げながら、おれが”よーいドン!”と言うのを待っている姿が目に浮かぶ。

最後の一滴まですべてを使い切って懸命に生き抜いた、素晴らしい最期だった。

そうやって生きよう、生きなければと思う。

ヒメよ、ありがとうよ。

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いちばん凛々しい横顔

 

屈せず、持ちこたえろ

今夜の小池知事の記者会見での専門家の話で、新型コロナの厄介さ恐ろしさがよくわかった。感染しても重症化せず活動できてしまう人が多いため、感染が爆発的に広がる恐れのあること。さらに、重症化する人の割合は少ない(とはいっても20%が少ないと言えるのか)ものの、重症から重篤に至るスピードが手がつけられないほど早い場合があること。

つまり自分が感染してしまい、幸い症状が軽く済んで回復したとしても、自分が誰かに感染させてしまった場合、その人の命に関わりかねないということだ。

そんなリスクを負ってまでやらなければならない仕事などしていないつもりだ。何日か出勤しないくらいなんとかなる。しかしそうは言っても家でできる仕事は限られており、それが長く続いてしまえば、事はそれなりに深刻化してゆくだろう。

おれは明日も仕事に行っていいんだろうか?この期に及んで”そもそも東京都民の何パーセントが感染しているっていうんだ”、などとうそぶいて行動を変えないのは、愚かで無責任な行為だ。しかし、敵はどこにいるのだ。目の前にいたとしても察知しようもない。なのでぼんやりと不安なまま息を詰め、通勤電車の何十分かをやり過ごす日々が続くはずだ。

9年前、想像を超えた事態は確かに起こりうると思い知った。これから先、制御できない事態に陥ってしまわないことを祈りつつ、できる限りの対策を講じながら、屈することなく持ちこたえるのだ、と念ずるのみである。

 

 

 

異臭発生

朝、いつものようにぬか漬けのフタを開けて、初めて漬けたキュウリを取り出したら、セメダインの匂いがする。昔プラモデルを作ったときに嗅いだあの匂いだ。何でそんな匂いがぬか床から? 

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まさにこれ、これよ

「ぬか漬け セメダイン」で調べてみたら出てくる出てくる。ぬか漬け界ではごくごくありふれたトラブルらしい。いったい何が起こったのかと思った。雑菌繁殖か乳酸菌の過醗酵でこういう匂いがするんだそうだ。

対処法は簡単だ。水分を除去し、塩分を加え毎日よくかき混ぜ低温保存すること。念のため雑菌を殺す効果があるはずの鷹の爪も追加した。

早速処置を行って、朝晩どうなったかな?とフタを開けるのだが、相変わらずセメダイン臭が立ち上る。どうしておさまらないんだろう。早くも醗酵生活頓挫の予感である。

塩分を追加し、キッチンペーパーでさらに水分を吸い取る。気温も20度に近い日が続いているので、容器を冷蔵庫に移した。こうして少しずつ手探りでいくだけだ。

これでもダメなら、イチから出直しなのか?それだけはなんとか避けたい。どうにも残念なので、なんとか復活してほしい。

 

 

 

 

 

 

ムキになってプランク

前回、プランク4分、などと書いてしまったので、誰に義理があるわけではないが、やってみた。ただし、いつもの通りなら腹筋やらなんやらの最後のメニューになるところを、今回はそのあたり全部飛ばしストレッチだけにして、その最後にやることにした。

いわゆるショートカットというやつである。サボりともいう。

こういうことをやるときには、心の準備などという余計なことを抜きにして、いきなり始めるべきだ。考えれば考えるほどイヤになるに決まっているからだ。

しかし、スマホのストップウォッチをセットしながらついつい考えてしまった。

4分、なげぇなぁ、速いランナーなら余裕で1キロ走り切る時間だよなあ。始める前からもうちょっとこわい。

開始ボタンを押して、カバーのフラップを閉じ、経過時間がわからないようにする。あと3分30秒、あと3分15秒、などと数えていたら、途中で絶対に心が折れちゃうと思ったからだ。

案の定30秒くらいたったと思われるところで、もう腹筋がキューっと収縮して、この8倍!と絶望的な気分になる。しかし、我ながら頑張った。4分できたのでこの際行けるところまで行けと思って堪えられるだけ堪えて、遂に大台の5分を達成した。

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もうしばらくやらなくていい

速く長く走れるようになりたいのであって、別にプランクの記録を更新したいわけじゃない。いつになったら走れるんだろうなぁ。

ランニングは修行ではない。修行ではないんだが。

アキレス腱炎は、まだ治らない。改めて調べてみると、簡単に治るものではないということがよくわかった。若い頃のまぼろしを追いかけて負荷をかけ過ぎたことの代償がこの結果なんだと思う。このまま無理を続けたら本当に走れなくなる。なので、今度こそちゃんと治るまで中途半端に走ったりするのはやめた。

こういう時は医者やスポーツ整体といった専門家に委ねるものなんだろうな。でも日常生活には全く何の支障もない。それに、たちまち治ってしまうような特効薬的手立てなんてものはたぶんあり得ない。安静にしてこんなストレッチやマッサージや筋トレを気長に続けて回復を待ちましょう、と言われて湿布薬を出されて終わりだ。それなら医者に行くまでもない。

自分のカラダの問題点はおよそわかっているつもりなので、その改善にフォーカスして、ネットであれこれ調べてみた。良さそうかもなと思えることを拾い上げて、試行錯誤開始である。

 

だけど、千日回峰行を達成した大阿闍梨のドキュメンタリーを思い出したりすると、ついついこんなモードが発動する。

ja.wikipedia.org人間の精神と肉体が行き着くことができる限界点を遥かに超えた先の先のその先まで行ってしまったあの人たちに比べて、おれのこのだらしなさはいったい何なのか!こんな程度のことにも耐えられないふやけたアキレス腱なら、いっそ破裂してしまえばいいのだ!

むちゃくちゃである。サブ4を1回達成しただけのおのれと誰を比べているのか。でもそんなふうに思っちゃうどうにも困った輩は、おれの中からなかなかいなくならないんである。

その割にはプランクとか足上げ腹筋なんかを、なんでいつまでたってもこんなに辛いんだ~と嘆きつつヒイヒイ言いながらやっている。そんなものだ。

プランクはやっと3分半できるようになった。なので今日はこのバカ野郎に4分に挑戦してもらうことにした。アキレス腱が治ったら、こんなただ辛いだけの地味なトレーニングじゃなくって、好きなだけ走らせてあげるからね、血反吐をはいて死にかけるくらい無茶苦茶に走らせてあげるからね、とそいつに言い聞かせながら、プラス30秒を乗り越えてもらおう。

 

 

 

 

 

 

HAPPY BIRTHDAY!

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Baby,I'm just your mother and also your father!

なんという美しい光景であろうか…!と思うのは自分だけだということはよくわかっている。

うちの子が絶対に世界一かわいい!というのと同じことなんだろう。

本当はあと何日か熟成を待ってから漬けるはずだったが、もう待てない。スーパーでカブを買ってきた。そもそもどちらかといえばあまり興味のない野菜なので、カブを買うのは生まれて初めてだ。自分でもどうしてそうなったのか、そこのところはよくわからないのだが(思い出した!ぬか漬けを作ろう!と思い立ったテレビ番組で、所さんがカブのぬか漬けを食べて悶絶していたからだ)、最初に漬けるのはカブとニンジンだ、と決めていたのだ。

茎の部分を5センチほど残し本体を半分に切って、冷蔵庫にあった使いかけのニンジンをこれも半分に切って共に漬けた。カブの葉は、もちろん捨てずにおひたしにした。

15時間後の今朝、ぬか床から取り出しぬかにまみれたまま皿に並べた。誕生とか出産とかいう言葉が、起き抜けのまだはっきりしないアタマに浮かぶ。こんにちは赤ちゃんである。ただの生野菜が、新たな命を得て生まれ変わった瞬間である。

実際に出産を経験された女性の皆様、たったこれだけのことを、われわれ男には想像もつかない命がけの体験になぞらえてしまい、ほんとうに申し訳ございません。それでも、ぬか床から彼らを掘り出した瞬間、それがまさに天啓のように舞い降りてきたのだから仕方がない。

早速食べやすい大きさに切って、保冷剤までつけてランチバッグに入れ、カイシャに着くと真っ先に給湯室に向かい、カブのおひたしと共に冷蔵庫の最深部に置き昼飯を待った。

いつになく野菜だらけの昼飯である。あぁ、なんというやさしい味わいであろうか。離乳食を食べ始めたころから今日まで、武士の嗜み早飯となんやら、というような食事の作法で生きてきた。しかし今日ばかりは落ち着いてゆっくりとご飯をいただき、そのありがたさをかみしめたのである。

Amazonで検索するとわらわらと醗酵(発酵よりこっちの字の方がかっこいいので、これからはこの表記で行く)に関する書籍やムックが出てくる。思わず手あたり次第カートに入れそうになる。いやいや、ここはひとまず冷静になり、しばらくはこのぬか床と共に、ゆるゆるとじわじわと慌てず焦らず静かに醗酵してゆこうではないか。そう思った3/11の昼下がりである。

走ろうにも・・・

昨日、佐倉マラソン実行委員会から開催中止の葉書が届いた。

それにしても何でも中止、自粛されていく。

そこに一人でも感染者が出てしまえば、主催者側は責任を問われることになるだろう。さらに感染しても症状が出ない人がいて、その人も感染源になり得ることがわかった以上、中止の判断はもちろん妥当だと思う。

9年前の3月11日、僕は仕事で川崎の石油コンビナートを尋ねていた。いきなりの揺れに打ち合わせをしていた建物から飛び出すと、地面が大きくうねりながら揺れた。これまでの人生で経験したことがないとんでもなく大変なことがいま降りかかって来たのだと思った。パイプラインと煙突だらけの工場を前にして、怯えながらも腹が立ち、仁王立ちしていた。

工場の前で拾ったタクシーに乗り川崎駅に向かったが、すべての信号が消えている。交差点でタクシーが止まると余震でゆらゆらした。ずっと変わらず続くものと漠然と思っていた日常が、実はこんなにも脆いものだったことを目の当たりにして揺さぶられていた。

夜になり、東北地方の太平洋沿岸が、関東地方とは比べ物にならないあまりにも痛ましく凄まじい被害に見舞われていることを知った。それから始まった大変な日々のことは今でも忘れてはいない。

あの惨禍とはもちろん比べようもないが、いまの状況と9年前の空気には似通ったものを感じている。忘れかけていた不安がじわじわと蘇る。

走ればその間だけでも忘れられるのになと思ったが、今日は一日中冷たい雨が降っていた。アキレス腱の調子もまだ戻らない。

自分がウイルスの運び屋にならないようできる限り気を付けつつ、コロナ以前の日常が戻ってくることをただ待つだけだ。