行きつ戻りつ

走ったり、投げたり、時に釣ったり、何か作ったり、生きてりゃ行き当るとりとめなき事を

練習日記 200510

アキレス腱が治って1ヶ月。再発の気配がないのは嬉しいんだが、モチベーションがなかなか上がらない。

コロナの影響で出社機会は大幅に減り、走る時間は山ほどある。こりゃあなんぼでも走れるなぁ、と思っていたのにもかかわらず気持ちがついて来ない。故障しないように、というのがこれからの大前提だけど、それにしても以前のようにギアを上げて追い込もうという気になれない。苦しいのはちょっとイヤだしなぁ、などと思う。

世を挙げての自粛モードだ。自分もそいつに冒されているんだろう。医療現場で戦っている医療関係者や、エッセンシャルワーカーの人たちの日々のプレッシャーや恐怖や葛藤を思えば、自粛モードで気分が晴れませんなどと言えるかボケ、と思う。しかし両足を踏ん張って戦うのだと奮い立とうにも、求められているのは動き回らずにじっとしていることだ。そんな日々は少しずつ自分を侵食していく。

だからせめて心と体を保つために走ろうと思う。

ところがいま、周囲と十分な距離を開けて歩いている時でさえ、マスクをするのが当たり前になっている。車を運転しながらマスクをしている人も珍しくない。おれは、それって必要か?と思ってしまうタチだ。さらに、世間に広がりつつある空気を絶対化し、その判断基準から外れた行動をしている者は告発され非難されるべきだと思い込む人々が増えてしまうことは、何より最悪だと思っている。だけどこんな状況下では、マスクをしない人を不快に思ったり恐れたりする人の気持ちもわかる。それでバンダナで鼻と口を覆って何度か走ったけれど、あまりにも鬱陶しくて閉口した。だから人がなるべく少ないところや時間帯を選んで走る。

 

走っていると、お寺や神社が本当にたくさんあることに気づく。特定の宗教に帰依することは生涯ないだろう。かといって人智の及ばぬいわゆる天の摂理や真摯に何かを信ずる心を否定する気持ちも全くない。むしろそういうもの大切にしたいと思っている。

キロ○分△秒で走り切るぞ!と目を吊り上げて走っていると、寄り道など絶対にできない。しかしいまはそんなモードではないので、気が向くとふらふらと境内に入ってみたりする。

今日は18キロ走った。ろくなものを食べずに走ったのでガス欠になり、いい加減くたびれ果てた頃、通りかかったお寺の門前の掲示板に目が行ったので、立ち止まって読んでみた。日蓮宗の寺らしく、立正安国論の冒頭の文章に、当時の時代背景とコロナ感染拡大を重ねた解説文が添えられていた。

日蓮立正安国論を著したのは1260年。なるほど。当時日本は疫病や災害や飢饉に次々と襲われ、まさに屍累々であり、日蓮はその末法の世を救わんと、時の最高権力者北条時頼に提出したのだという。全く知らなかった。日本史、いや歴史に関する知識が情けないほどないのだおれは。

疫病が起これば何が原因か知る由もなく、治療法などもちろんありはしない。死は常に身近にあり、生きることの切実さは今とは比べものにならなかっただろう。法華経を必死に唱えたところで、疫病が治るわけがない。しかしそれ以外何にすがれたというのだ。

そういう人々の身を捩るような嘆きや悲しみや願い、そして感謝や畏敬の念が、長い年月捧げられ続けてきたのだ。それは今でもここに留まり続けているように思えて、いつも境内では少し怖いようなしんとした気持ちになる。

800年前と比べれば、ただ生き伸びるだけならばそれは遥かに容易になったに違いない。しかしいま、コロナウィルスの脅威を前に、世界は息を潜めている。生きることの切実さを問い直すのはこういう時なのではなかろうか、という月並な締めで終わるが、そういうことだと思うのだ本当に。

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道の脇の湿地にクレソン!摘んで帰りたい〜