行きつ戻りつ

走ったり、投げたり、時に釣ったり、何か作ったり、生きてりゃ行き当るとりとめなき事を

花粉症よさらば

31歳の春、月曜の朝、通勤の車中で突然花粉症を発症した。まさに爆発だった。

その前日、おれは埼玉の奥地のゴルフ場での取引先のえらい人との接待ゴルフに駆り出されていた。当時勤めていた会社の社長は、人生に仕事とゴルフ以外何もないという人だったから、若い営業マンだったおれも、腕はともかくゴルフの回数だけは何しろ多かった。年間30回近く行ったんじゃないだろうか。もちろんひたすら会社持ちの接待ゴルフである。楽しいわけがない。

後で思い出した。プレーが終わり駐車場に停めていた営業車に戻ると、薄い青のボンネットが白い粉で覆われていて怪訝に思った。それがまさにスギ花粉だったのだ。それを1日中大量に浴び続けた結果、ついにおれの中の花粉ダムが決壊したのだ。適当な例えだが、まさにそんなイメージだった。それ以来心弾むはずの春は、あまり歓迎したくない季節に変わってしまった。

幸いよく効く市販の漢方薬に出会ったので、それさえあればたいていの年は何とかなっていた。ただ、猛暑の夏の後の花粉シーズンには、大量の花粉が飛ぶ。そんな年は普通なら効くはずの漢方薬では手に負えず、耳鼻科に泣きついた。

そういえばこんなこともあった。東日本大震災があった年の4月上旬、大阪に出張したついでに有休を取り奈良に一泊して、古刹名刹を回ることにした。震災から一ヶ月がたっても東日本では酷い状況が続いていたが、関西にはそんな気配のかけらもなかった。おれはそれにイラついた一方で、少しほっとしてもいた。

40年ぶりに訪れた奈良は、驚いたことに観光地の匂いが極めて薄い、まさに千数百年前のまほろばを肌で感じられる、実に素晴らしいところだった。

しかし、東京では既に飛び終わっていた花粉が何故か奈良にはまだ残っていた。若草山の斜面に座って斑鳩の里を眺め渡しながらこの上なく穏やかで満ち足りた気分で朝飯のパンを食べようとしたあたりでそいつを感知した。そこからえらいことになった。くしゃみと鼻水の発作に襲われつつ東大寺を拝観し、やっと見つけた薬局で鼻炎の薬を買うまで、もう大変だった。

そんな具合に花粉症と付き合ってきたのだが、3年半前に真面目に走り出し、フルマラソンに出るようになって、舌禍免疫療法を試すことにした。それまでは、これでダメだったらもう打つ手はないことになるのかと思ったのと、少なくとも花粉シーズン3回分というあまりにも長い間、4週間ごとに病院に通い(4週間分しか薬を処方できない決まりなのだ)毎日忘れずに薄めた花粉エキスを投与することの煩わしさもあり、二の足を踏んでいた。

しかし何しろおれにとってのマラソンシーズンの総仕上げとなる3月末の佐倉マラソンが行われる頃、スギ花粉の飛散量はピークを迎えることが多いのだ。ちゃんと走ろうと思ったら、これはもうダメ元でチャレンジするしかない。上手く行けば、これでおれも発症前の花粉フリーだった頃の自分に戻れるかもしれない。ダメなら、諦めて一生こいつと付き合うだけだ、と覚悟を決めた。

そして2年半あまり前の10月、近所の耳鼻科に行きスタートした。最初はまず濃度の薄いエキスから始め、アナフィキラシーショックの有無などを確認しながら段階的に濃くして行く。うっかり朝の投与を忘れてしまうことがあり、危うくイチから出直しになりそうなこともあったものの(3日続けて忘れると、最初からやり直さなければならない)、アンプルを保存している冷蔵庫のドアに、でっかく”花粉”と書いた紙を貼り、何とか毎朝の習慣にすることができた。

そして2018年の花粉シーズンを迎えた。周りの花粉症仲間がぐすぐすやり出しても、自分には症状が出ない。毎年あれほど悩まされた鼻、目、上口蓋、耳奥のどうにもならないあの痒みと膨満感が全く感じられない。夜も口を閉じたまま眠れる。朝起きた時に口の中が障子紙のようにカラっからになっていて声も出せない、なんてこともない!

医者によれば、不幸にして全く効果のない人もいるという。改善はするものの、残念ながら完治まで行かない人も多いらしい。ところが本当に嬉しいことにおれの場合、25年近く悩まされ続けてきたあの症状から完全に解放されたのだ。あまりにも劇的な効き目に医者も驚いていた。2年目も3年目の今年も何事も起こらなかった。そして約束の3年目の花粉シーズンが終わり、最後の通院の日がやってきた。

医者は、少し残念そうに「本当は5年継続が推奨されてるんだけどねぇ」と言ったが、ひとまずこれで止めることにしていたので、2年半世話になった礼を言い、最後の4週間分のアンプルを受け取って帰った。

そしていま手元に残ったのは最後のアンプル。およそ1000日にわたって続けてきた習慣が明日で終わる。現代医学よ、本当にありがとう。

これを読んだ花粉症に悩むランナーの誰かがこの秋から免疫療法にトライして、いい結果が出るなんてことがあればいいなと思う。

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おまえのことは忘れないよ

だけどもう二度と思い出さずに済むことを祈るよ