行きつ戻りつ

走ったり、投げたり、時に釣ったり、何か作ったり、生きてりゃ行き当るとりとめなき事を

走ることについて 〜思い返せば その4前編〜 

初めてのマラソン大会 前編

東京都下で生まれ育ち、ずーっとそういう生活が続くものだと思っていた小学5年の夏、大阪に引っ越すことになった。転校先はニュータウンの外れにあるその年できたばかりの新設校だった。校舎はまだ完成しておらず、学校の建築現場の近くの空き地に建ったプレハブが仮住まいだった。

校庭はそのプレハブの隣にあるどこかの企業のグラウンドで、今思えば総天然芝の贅沢な環境だった。そのせいでもないだろうがスポーツが盛んで、冬になると東京の学校にはなかったマラソン大会があった。

 

おれは、大阪に行って早々に少年野球チームに入った。近くに剣道の道場はなかったし、新しくできた友達、ハマやんやヤンジやシロウがそのチームに入っていたからだ。それに東京で最も熱中していた遊びは野球だった。

ただ東京の団地には本格的な野球をするのに十分な広さのグラウンドがなかったので、軟球とグローブを使えるのはキャッチボールの時だけだった。試合は中空のプラスチックのバットにゴムボールで、ピッチャーは下投げだった。だからちゃんとしたチームで、しかも先輩のお下がりとはいえ憧れだったユニフォームを着て野球ができるのは、何だかとても晴れがましい気分だった。

毎週土日は練習があり、平日は週に2回早朝マラソンがあった。週末の練習には、母親たちも少しは手伝いに来ていたような気がするが、今のように選手の親が総出で付きっきりで面倒を見るようなことはなく、たいてい大人は監督とコーチの計2名だけだった。出勤前のマラソンに、週末の練習、よくぞ面倒を見て下さったものだと思う。ニシザワ監督、シラキコーチ、本当にありがとうございました。

さて、そこで早朝マラソンだが、何だかおれは結構速かった。短距離走では、4年ながら抜群のセンスでショートを守るナガサカくんに負けるくらいなのに、マラソンでは、6年のキャプテンでエースのマサイくんにだけはどうしても勝てなかったものの、いつも2着でゴールしていた。やっぱり2位なんだが、相手は6年生だからいいのだ。

 

ならばマラソン大会ではちょっとぐらい気合が入っても良さそうなものだ。ところが気負ってスタートラインにひしめいている連中に加わることもなく、どういうわけだか後ろの方からゆるゆるとスタートしたのだった。

そんなにかっ飛ばした記憶はない。それでも前を走る連中がどんどん後ろに下がって行き、しばらくするとずいぶん先行していたはずのクラスメイトたちの何人かが、ゴールの校庭に向かう上り坂を団子になって走っているところに追いついた。

「ジュリコ(おれのあだ名)!タナやんを抜かしたってくれぇ!」みんなを抜きにかかったおれに、誰かがそう叫んだ。

後編に続く