行きつ戻りつ

走ったり、投げたり、時に釣ったり、何か作ったり、生きてりゃ行き当るとりとめなき事を

干し柿作り 〜その6 承前〜

 続く、なんて、もったいぶった終わり方をしてしまった。

ファーストインプレッションの衝撃を書こうとしてあれこれこねくった挙句、自分の手持ちの言葉では手に余ることがよーくわかったので、一旦そこでストップしてしまっただけでした。

 

で、「柿の木」で検索してみた。

柿の木はたいへん無骨ななりをしている。樹皮は細かく粗くひび割れ、枝はねじくれながら四方八方に伸び、葉を落とした樹形はむしろ不気味ですらある。花が咲けばどうなるのか、そういえば見たことがないと思って調べてみたら、これまた花とは思えないほど地味な画像が出てくる。これじゃあ咲いても大方の人は気づかないだろう。

実にしても、華やかさや香り高さで他の果物と比べると、オレンジ色は鮮やかだけど、日本の原風景的に見慣れていることもあって、圧倒的に素朴な部類になってしまう。

しかしその実は干すことで変わるのだ。干すというのはすごい。それだけで、様々な食べ物が実に旨くなる。

釣ったばかりの魚を捌いて食べるのはもちろん格別だが、塩水で洗って一夜干しにしてみれば、新鮮な魚にはない旨味が醸し出される。

でも干し柿の変身っぷりはそれを遥かに超えていたわけですよ。

ケレン味もなくアクセントや深みにも欠け、それどころか口中が痺れるほど渋かったりする柿の実が、たったこれっぽっちの手間をかけただけで、まるで数十年を経た古酒のように滋味豊かで凝縮された奥深い味わいを手に入れてしまうんですよ。

 

もちろん、これが初めて自分で作った干し柿だからこその思い込みであることは百も承知だ。何であれ、習熟した人の手で作られるものには確かにそれだけの価値があり、間違いがない。しかしですね、どんなに未熟でも自分で作ってみると、そこには確実に気持ちがこもってくる。巧拙に関わりなく、手をかければかけるほど、その対象への思いは強くなる。

上手くやれるに越したことはないけれど、失敗しても、出来映えが思い通りではなかったとしても、それでもそこには、この世にあるものに確かに自分が関わっているという手応えがある。

ああ、こういうことなんだよなぁ、としみじみ思う。

それを人様に押し付けるのは愚かなことだ。それでも、きっとそれはとても大切なことなんだろう。これからはそんなことをあれこれ少しずつ試してみるつもりでいる。

 

などと書きながら、昨日また追加で買い込んでしまい、今また42個が渋抜き中だったりする。

全然少しずつではない。あれこれでもない。こればっかり、である。我ながら呆れている。

でも、これでいいのだ。

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包丁よく研いだら、ピーラーより早く剥けた。包丁よ、済まなかった